昭和39年11月06日 朝の御理解



 信心は、親に孝行するも同じことぞと。ほんとに信心は親に孝行するも同じ事と言う様な、親子の心情を以てお道の信心は、段々進められていかなければいけない。所が是は最近と言うて最近そういうふうがあると言う訳じゃないのだけれども、そういう親子の心情をもってではなくて、何か夫婦の愛情と言った様なもので、信心が続けられておると言う様なのを、親子の心情と間違えておる様な場合がある様な気がする。
 よく申しますでしょ。切れれば他人。これが夫婦の、いわばその絆というかその、つながりというものがです、実に密なるものがあるかと思うけれども、さあ何か一つ事があって、なら、切れるの別れるのと言う事になってまいりますとです、もうその情というものは、それで消えてしまう。親子の心情を以て解きあかし、又しみじみ本当の信心を、お道の信心を、わからせて頂きますと。
 神は我が本体の親と言う様な事が分かってまいりますとです、信心はなるほど親に孝行するも同じことぞ、という情を以て、なされなければいけないということがわかるんですけれども。もう何かよかときには、それこそくいとりの様に、神様と仲良うする信心が出来ていくんですけれども、ひとたび間違ってまいりますと、信心な金光様だけじゃなかもんだからとか、ね、
 信心は椛目だけじゃないから、と言った様な事になりかねない。そういうことでは、お道の信心の真髄にふれることはできないと思う。いわゆるこの真髄にふれてゆく信心にならせて頂かなければでけんのです。なら果たして自分達の信心がです、なるほどその有り難い有り難いと言うて、椛目通いをしておるけれども、それは、私達の信心は夫婦愛的な情を以て、結ばれていきよるのではなかろうかと言った。
 時々検討してみなきゃ、いけませんですね。自分の都合のよか時には、ほんとに有り難い、有り難いのだけれども、でないと反対な事になる。言わば切れれば他人と。例えばここで、私がこうしておかげ頂く様になって十四年間。中にはやっぱ、随分それで切れていった人がありますよ。ね。惜しいでしょうが。どう言う様な所からそう言う様な事になってゆくだろうか。
 昨日の朝、私にあの皆さんにはちょっと申しましたように、昨日は夫婦で東京歌舞伎が久留米にきておりました、御招待を頂いておりましたから参りました。今度あいうえおのうの番号の札が、こう二枚続けて頂いとっておったんですよ。だけんま「あいう」じゃけん、もう前の方だろうとこう思うとった。私どもが参りました、さ今から開場で、開場じゃない、開演で御座いますと言うて、もう押し込まれるようにしてから。
 あの場内に入ったんです。それでそのそこん所を家内が調べたところが、「お父さん一番向こう隅の一番端ですよ」というわけ。そんなことだったら、歌舞伎芝居見るもう雰囲気も値打ちも全然無いです、歌舞伎芝居は。同時に私がたとえばなら、好きで見ておるもの。神様もそれは充分ご承知の筈なのです。家内も好きなんです。たまたま神様の言わばご招待のような気持ちで私どもは行っているんです。
 そんな所で見る筈は、見らんならん筈はなかと私は思いましたから、もう一番中央のまんなか、前から、芝居小屋でいうならば、ま三枚目というところです。椅子でだったら丁度五番目ぐらいな所です。ちょうど花道を七三に見る、こう言う様な所、もうここが一番、特定の一番よい場所とされとります芝居を見る時には。そこ丁度幸い、こう二つ空いとりますから、私はそこにかけさせて頂いた。
 家内が来なさるならいかんけん、あっつぁん行きましょうと言うけん、ならお前だけ行けと。おかげで、ならあなたたちが、帰ってからそこをおかげ頂いたと言うたら、ほらもうあなたたちが掛けとるけん、その退いて下さいと気の毒っかけん言いにくかけんでじゃろっとこう言うけれども、そういう人情ではない、皆さんもご承知でしょうけれども、なんつか、井筒屋さんの招待ですから。
 その井筒屋の、店員さんたちがずうとその、かたちからやってから、井筒やさんたちがその番号を、引きおうてから、こうしているわけですからね。そういう人情やら出てくる筈がなか。キップが違っておったら、ここで席をお変わり下さいと言うて、私共の周囲の所は全部それで、そうですけれども、そこだけは、おかげで初めから最後まで、おかげ頂いておるですね。
 これはもう一遍、二遍のことじゃない。もう、なら時々じゃない、もういつもなんです。私共が京都に参りました時に、京都の御園座(南座)と言やあ、東京の歌舞伎座の格を以てお芝居があるところなんです。もう歌舞伎座の俳優がですね、あそこの、正月なんかにやります時には、もう歌舞伎座の格を以てやるんです。そらもうたいしたもんです。もう鳴り物から俳優は言うに及ばず。
 そのままそっくり、あの歌舞伎座がやる、そのまま京都でいくようにあります。昔から大変これは有名なですね。ですから、とてもそこの席をですね、十日二十日どん前どん申し込んだって、あるはずはないのです。ちょうどあちらにまいりました時に、こちらに来たから丁度その歌舞伎座そのままのような、その、お芝居があっておる時に行き合わせましたもんですから、こりゃ見とかなごてと、それこそ芝居好きのね。
 流れになるというような気持ちが出て、二人でまいりました。けどその時には、今言うように、その、まあ立ち見でもいいというような気持ちでしたんですけれども。家内が入場券を買いました。その時にその、事務所の方へ電話が掛かって来てるんですね。ところがどこそこか二人空く、いうのと私共がキップを買うのが一緒だった。だからここへ幸い空きましたからと言って下さったのが。
 ただ今申します様に、前から三番目の丁度七三をこう見る様な所の場所でした。去年もあの福岡の電気ホールでしたか、いや市民会館ですか、あっちでやっぱり歌舞伎舞の時に御招待を頂いた時が、やっぱりキップはもうそのてんでんばらばらでした。しかもその後ろの方でした。けども俺とお前が別々に見るわけにはいかんけん、とそんな事を言いながらと、前のそこん所に席をとらせて頂いた横の人が言いやるんですね。
 今電話掛かって来たらここの人があの、来んと言いよんなはるけんでこりゃお弁当の持ってき損じゃったち言うて言いよんなさるですもん。ほほうこりゃおかげ頂くなと言う訳なんです。本当にまあ見えませんでした。それから私家に帰ってから家内にまあ言います訳ですよね。もうこりゃお芝居だけじゃなかぞ私を中心にしてからあっておる事、こげんいつも言うたら一分一厘も間違いのない事が繰り返されておるのぞと。
 それを、痛いことにしろ、痒いことにしろ、だからお前まちっと俺を大事にせにゃいかんぞと。まちっとほんとに本気で私が拝めるようにならなけりゃでけんぞと。ただ事じゃなかぞと言うて、ま、家内に話して。皆さんけろけろ笑ってるんですけれども、ほんとにそうなのですから。昨日でも、たとえばならその久留米の公会堂ですから、たくさんの人が立錐の余地もないごと入っておるんですよ。
 その中に言わば七三をこう見るといったような一番特定の良い場所が二つだけ、誰かが来てないわけなのです、やはり。ですからこんなふうに見えるなら、説明すればもうふが良かったとかだけは言われん。そげん二遍が三遍と重なってまいりますと。けれどもそれと反対のような場合も、やはりあるけれどもです、けれども、それもおんなじことであるという印がその後によって見えてくるという事実があることです。
 たとえば痛いことであっても、痒いことであっても、親先生の御取次を頂いてあああっておるのであるから、間違はいない、という頂き方を以て信心が続けられておるならばです、なるほどその時は、ああであったけれども、こうゆうおかげを頂くためであったという、一分一厘の間違いの無い働きが現れて来るから、有り難いのです。だからここんとこが分かって参りませんと、今日私が申しますようにですたい、ね、
 夫婦愛的な信心でしまわなければならない。女は三界に家なしと。どんなに財産がでけても子供がでけても、子供はカスガイだと言うても、カスガイぐるみ別れなければならないという事実の人が、世の中に沢山あるように、何十年も金光様の御信心を頂いておって、あれほどのおかげを頂いている人達が、〇〇さんに代わってござるげなといったような例は沢山あるでしょうが。
 私が只今申しますそう言う所にふれてゆかずに、信心を進めておるからなんですよ。神はわが本体の親ぞと言う様な、まあいうならばそういう、お道の信心の真髄と言った様なものをです、頭で分かるだけではない、自分の心の髄までです、なるほど親神様じゃなあというおかげを頂いていかねばです、分からないです。神はわが本体の親であると。信心は、だから親に孝行するも同じ事の様な心の状態を以て。
 信心を進めていかなければいけないという。そこで私は皆さんの信心がです、そげん親先生のごたる真似だけは、真似はでけんと言うようなことではなくてです、たとえそれが本当のものであってもなくてもです、あの先人の中にもありますように「猫でない証拠に横に竹を描き」とうゆうおかげを頂いていかなければいけないて。ね。私共の場合でもそうかも知れません。
 ほんとな金光様の信心というのがです、本当にま虎であるならばです、ま虎に似たようなご無礼なもんかも知れませんけれども、横に竹がありますおかげでです、はあこりゃ虎ばいなということが、分かるだけの信心にはお互いなっていかなければいけないということ。どうだったっちゃこうだったちゃ、このおかげを見ただけで間違いなかじゃないのというその、間違いじゃなかじゃないの、と言えれるようなものが、ここになからなければいけないということ。いつの場合だって。
 いかにも叩かれておるようにあるけれども、今日もあの情を見せて下さるところを見ると、あれは神愛の現れであるんじゃない、あるじゃないのということが、思えれるようなおかげでなからにゃいかんということ。もう這いも立ちも出来んごたる難儀の中にあってもです、神様がとく心情を見せて下さる。その心情をわからせて頂くと同時にです、神様すいません、こうしてまででも私共を本当のものにして下さろうとする。
 おかげ下さろうとする、働きに感泣しなければおられないのです。おかげに有り難いというのじゃない、神様の情をわからせてもらうと有り難いという信心になってゆかねばならないとこう思うのですね。そこで私はです、皆さんの例えば、それは信心の度合いというもの、程度というものは、それぞれでしょうけれども、それは猫やら虎やら分からんような信心ではありましょうけれどもです。
 この竹だけは頂いていけれる信心、それはもうこれは徹底してひとつ椛目で皆さん信心のけいこをなさるならね、成り行きを尊び、成り行きを大事にということに精進さしてもらうところの信心にならなければいけないです。成り行きを尊ばせて頂くということ。成り行きを尊ばせて頂いておるとです、どんな場合でも安心ができるんです。そして必ずその時にはわからなくても、後でです。
 なるほどこうゆうおかげを頂くとこであった、この時に不平でも不足でもその言うておかんでよかったというおかげになってくるのです。先日から親先生から呼び出しがあった。何のことでかとこう思うてまいりました。そしたらあの、桜井先生のことだった。私が桜井先生を、ま、福岡の教会からとってしもうたというわけです。ね、そして椛目の、言わば久留米のように出社ふうにしてから。
 福岡でそのしよると言う様な事を言うてきたが、事実はどうかということを、まあ聞きあわされるためであった。成程先生似てはおります。ね。ただ今も教師の資格を夫婦ながら持っておられるのだけれども、もう金光様の信心すらもう駄目にしておられるような状態にあったと、椛目に見えた時には。椛目でだんだんお話を頂かれるに従ってです、これはもう一遍せっかくお道の教師の資格までもっておるのであるから、これはこのう布教に従事さして頂かなきゃならん。
 本当の御用に使うて頂かなきゃならん、という気持ちになられたのは、たしかに椛目の信心に触れられてからこっちなのです。そこでただ今なさっておった仕事を止めてしまって、いうならば背水の陣をしいて、もう死に生きは神様におまかせするというごたる気持ちで、これから御用に使うて頂きたいと言うて下さった。そのためにだからなら先ず一つ順序としてね、親教会の荒戸の教会にお詫びにいきなさいて私は申しました。
 もうどげん思うたっちゃ行かれん、また行きたくない、と言われるのをそんな事ではでけん、とにかく行きなさいと言うてやった。ところが行かれたけれども、それはもう実に、まあ、言うなら、血も涙もないような、もう親でもなからなきゃ子でもない、あん時に切れて行ったじゃないか、というようなことで、とりつくしまがなかった。それで私はまた申しました。
 いろいろそら何とか方法をとらなきゃいけないが、私どもではその、言うならば事務的な、そういうことがでけませんもんですから、いう話して居るうちに、この、私が出たり入ったりする時に、春吉の教会と大橋の教会の先生達、あちらが、福岡の出社ですから、に、ご迷惑を掛けておるという話が出たから、そんならもう桜井先生、ここにも相談する以外にないですな、と言うて、私春吉の先生を私知っておりますから。
 春吉の先生にこう言うたというてから、ひとつお願いに行ってごらん。そしたら春吉の先生も大変、そらーよかよ、良いところに気がついたと、あんたがその気ならあたしがもう一遍親教会にとりなしてやろうと言われるところまで、私は、知っておった。ところがそのただ今親教会から呼び出しが来てから、そうゆうことになったわけなんですね。それで私はその事実を申しましたんです。
 そしたら親先生も大変安心されましてですね、「そげなことじゃった。あんたが回るなら福岡の方へおやりになったつもあんたじゃったのと。春吉に頼みに行ったのもあんたじゃったの。そげなことじゃったの。」というてなら、親先生もわかって下さったんですよ。それはほんとにだから、おかげ頂いたな、そんならこの私が今度福岡に行ったら、どうせ奥様達がご姉妹のことですから、私からもなら桜井先生が一日も早うそういうことになるように私からも言うてやろう、ということまでになっとった。
 そこでその昨日おとといでしたか、桜井先生、丁度見えられましたから、実はあんたのことでこうこうじゃったもんな、と言うて私、話したんです。ああ、四日会の日でした。ところがなんですよね。桜井先生見えたから、あのそんなわけでしたから、桜井先生、善導寺にもね、そんなわけですから、十何年おられたことですから、善導寺の親先生とも親奥様ともよう知っとられるわけなんです。
 それで、あちらに、あいさつに行かなければいけないということを、私は、冗談まじりで言ったんです。ところがその冗談を本当に受けられてから、善導寺にご挨拶に行こうということに自分で決められてから、久留米にわざわざ行ってお供えものを買うて、それからそのおいでられた。そしてこちらへ帰って来られ、ところが、十時になっても十時半になっても帰って見えませんもん。
 それでもう椛目に行っちゃいかんとまた言われなさってから、もう帰られたじゃろうと思ったら、もうやんがて十一時過ぎにていうように、その、歩いて帰ってきなさいましたです。そして、もう今日はたいへんな御無礼になってから、こうだったというて、話を聞かせて頂きましたら、ほんとに、びっくりするぐらい話が変わっていっているわけなんです。桜井先生がお出でられます時に。
 丁度私は二階で久富先生からあんまをしてもらいよった。二階である方のお取次をさせて頂いておった。桜井先生は私のお取次を頂いて行こうと思うてから、その何度も二階に上がられるけれども、ある方のお取次をさしてもらいよるもんだから、お届けが済んでから上がろうと、そしたら二階からその方が下りてみえたから、すぐさかなしに二階に上がって見えたそうです。
 もうところがその、二階から下りてみえる間に私が、ぽっと眠っているわけなんですね、足を揉んでもらいながら。だから先生が、はあ今起きておられたけど、もうこう、気持ちよう寝んどられるから、そんなら、久富先生からよろしくお取次頂いておいて下さい、私、善導寺に行きますから、と言うて、ま、行かれたんでありますですね。そしてからたとえばそこまで、言わばスムーズに話がいっとるにもかかわらず、いろいろとそらもう話の雰囲気がそうだったんでしょうけれども。
 桜井先生が、いきなり荒巻先生から言われることなんです。「椛目としても今一番大事なところ、教務所関係の。あんたのことで福岡はあんた、椛目がこうしてうちの弟子を、ま、横取りしとるといったような意味のことを、教務所に連絡したげなばい今。どうするか」と言う様な話があった後だったらしいからですね。荒巻先生、だからあたしが今から取りなしに行ってやると仰ったそうです。
 「けれど荒巻先生、それだけはもうやめて下さい。私は福岡の教会に帰る気持ちはもう全然ありませんから」と言うて帰ってきたち言うんです。私がびっくりしましてね。「もう桜井先生、あんたあんたはその、道の教師を生かして布教、その福岡の手続きで出らなければならん、と思うばっかりに、そこまで話が進んでおるのにあなた、なら打ち壊して来て、したじゃないの」というわけなんです。
 けれどもそういう雰囲気になってしまったから、とこうだから本当のことを言うてきたとこういうわけなんです。「もうあんたばっかりは馬鹿じゃあるの」とたとえば言うところなんですけれども、さあそこが成り行きです。ね、秋永先生のところにだからまだ行か、秋永先生はもう同じこと。ほらちょいと馬鹿んごたること言うてきたの、と。けれどもしかしそれは、素晴らしいタイミングのもとにです、成り行きを思うとです、この成り行きは大事にしなきゃやっぱいかんとです、ね、
 桜井先生、と言われたということです。私もやっぱりそう。ですから、今のここん、こうのところではですね、ここのところでは、もう打って崩してしもうたようなことになった。私と善導寺の関係だって、私と教務所の関係だって、またこれでまた元に戻ってしまうごたる感じがするです。話を言わば聞きゃ聞くほど。それでも私どもそこんところは、いつも稽古さして頂きよる。いや、これは成り行き。
 ああ言わなんばい、こうせんならんばいといくら言われても、神ながらにそうなってああなったのであるから、これは神のご都合に違いはない、と思うから、よしこれが元にもどるとしても、これでだっておかげだと言うて、秋永先生、私と皆さんと一緒にお話したことなんですけれどもですね。こう言う様な場合でもです、やはり大事に頂いていかなければいけないということ。
 必ず見よってごらんなさい、ああそれが、あれが、おかげであったというふうになってくることを私は確信いたします。過去においてもそうだった。ですからとにかく私は成り行きを大事にするということに、ほんとに焦点を置かなければいけません。お道の信心は。お道の信心は、もう椛目にご縁を頂いておるなら、成り行きをほんとに尊ばなければいけません。自分の小さい智恵やら力をもってです。
 右の左のと、そら迷うごたる時もあるけれども、どんなに考えても右の方がよい、左の方がよいと、自分で思うようなことがあろうけれども、そこんところを、成り行きを大事にしていくところの信心さして頂いておらなければです、ささやかながらでも、竹のおかげは受けられんということです。そこんところに、はあなるほど、こうだけれどもこういう神さま間違いのない働きをここに見せて下さるから。
 間違いはないんだという、安心して進んでいけれるところのおかげを頂ける。そこからです、いよいよなるほどこの神さまこそ、親神さまだなあという実感が頂けれる。夫婦愛の、たとえば、的な信心ではです、良い時にはそれこそもう、ほんとにどんこんされんごと良かごとあるけれどもです、さあ、別れりゃ他人というような結果になっていかなければならんでしょうが。
 ために、今日私は、神は我が本体の親ぞ、といったような意味合いのことにおいては、説きませんでしたですね。まだからほんとに分かれば、神は我が本体の親ぞというようなところが分からしてもらって、ね、そして親に孝行するも同じことぞやというところの、信心。だから、信心は親に孝行するも同じ事ぞという在り方を以て進めば、進められていくことのためにです。
 成り行きを大事にしなければならんということ。そこには例えばそれが虎ではなく猫のようなまずい信心であってもです、やっぱり虎だなあと、やっぱりお道の信心は有り難いんだな、やはり親神様だなあ、というようなおかげを頂きながらですね、信心を進めていくことができるのです。おかげいただかなければいけません。